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持田香織、ELT30年で育んだ「自分の音楽」 「人ごと」から「自分ごと」へ【インタビュー前編】

 2026年、Every Little Thingがデビュー30周年を迎えた。1996年のデビューから数々のヒット曲を送り出し、3人から2人への体制変更を経ながら、音楽と向き合い続けてきた持田香織。その歩みの中で、歌うこと、言葉を綴ることへの意識はどう変わっていったのか。前編では、幼少期からELTとしてのデビュー、井上陽水との出会い、そしてソロ活動へとつながる音楽観の変化を聞いた。
※後編は9月30日掲載

(C)AMG

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――この夏、ELTがデビュー30周年を迎えました。今回はソロとしてのアイデンティティーも確立されている持田さんに、ELTでの活動を振り返っていただき、ご自身の根底にあった「音楽」がどう育っていったか、紐解いていけたらと思います。まず幼少期の頃のことから伺いたいのですが。

持田もともと芸能の世界とはご縁があったように思います。姉がとあるモデル事務所に所属していたので、私も生まれて割とすぐそこに入ることになりました。当時は子役の仕事も多くて、よくオーディションを受けていました。楽しいわけではないけれど、特に疑問に思うこともないというような感じで。学校のお友だちと遊ぶほうが楽しくなって、そこから離れていたこともありました。ただ、歌うことは好きだったので、何か音楽に携わるお仕事ができたらなと漠然とは思っていました。

――10代半ばからは、少しずつその道を進んでいくことに?

持田すごく努力して道を切り開いたというよりは、いろんな方と出会い、ご縁が繋がって道ができ始めたという感じでした。一度ソロとしてシングルをリリースした経験もあります。なかなか結果に繋がらず、学業に専念することになるんですけど。

――初期のELT楽曲を担っていた五十嵐充さんと出会ったのは?

持田高校生の頃です。エイベックスのスタッフの方から連絡があって、五十嵐さんのデモテープ作りに参加させていただくようになりました。ちょうどその頃、たしか豊洲で小室さんが主宰する野外イベントがあったと思うんですけど。

――おそらく1995年の『TK DANCE CAMP』ですね。

持田それを観に行かせていただいたときに、一緒に行った五十嵐さんが、「次はあっち側に行こう」と言ってくださった。すごく熱い気持ちが伝わりましたし、期待と夢を持って一緒に作ろうとしてくれてるんだなとも思いました。きっと簡単に言った言葉ではないと思うんです。ただ、当時の私はまだ学生気分が抜けていなかったので、少し照れくさい感じがして。けれどとても嬉しかったです。

(C) Forko Co., Ltd.

(C)Forko Co., Ltd.

――いよいよELTがデビューとなったときの周りの状況は、どんなふうに見ていましたか?

持田大人の方々が、ELTというプロジェクトを成功させようとして動いている。その勢いとかエネルギーみたいなものが、自分がそれまで少ないながら経験してきた状況とはまるで違う、と、感じていました。時代もあるとは思うんですけど、まだどうなるかもわからないグループに、いろんな道のプロフェッショナルな方々が関わっていたわけですから。そこについていかなきゃという気持ちにもなりましたし、自分のすべきことは何かと考えてもいたと思います。

――それらをプレッシャーと呼ぶなら。

持田感じてはいたかなと。デビューできた喜びよりも緊張のほうが大きかったです。

――デビュー後すぐ、盛んにメディアに取り上げられました。

持田当時は、目の前の仕事をやりこなしていくことで精一杯でした。自分たちの置かれている状況とか、世の中からどう見えているかより、その現場、現場のプロの方々の仕事の中身を見たり、お話を聞かせていただいたりすることが楽しみでした。でしゃばって話すタイプではないので、大人たちの会話を聞いているだけなんですけど、それでも、何かこの世界を知っていくことの醍醐味を味わえていた気がします。
  • 「Dear My Friend」ジャケット (C)AMC

    「Dear My Friend」ジャケット (C)AMC

――歌番組に出るのも早かったですよね。

持田私自身はバンド経験もなかったですし、まだヒットと呼べる曲もないうちからだったので、生で歌わなければならない現場はすごく緊張しました。ほどなくして街に一歩出るとELTの曲が流れてくる状況が訪れて、学校の友だちからも応援されるなど世間からの見え方を実感するようになるんですけど、ライブでお客さんの熱を感じるようになるのは、そこから2年ほど経ってからです。

――ライブツアーは、2枚目のアルバム『Time to Destination』が出てからでした。

持田その頃にはもう、アリーナクラスでやることも可能だったかもしれないんですけど、五十嵐さんは2000人規模のホールでやることにこだわっていました。みなさんのお顔が見える距離感でちゃんとご挨拶に回りたい、長くやっていくうえではそこが大事なんだ、という思いが強かったんだと思います。もちろん、2000人規模でも私にとってはとてつもなく大きい。なにしろテーマパークやデパートの屋上など、誰も立ち止まってくれない状況下でしか歌ったことがないんですから。「なんかすごいことになってる」と、若干人ごとのような感覚でいた気がします。

――そのちょっと俯瞰の目を、持田さんは常に持っていますよね。

持田もともと人見知りなところがあるので、何かにすぐにグッと入っていけない、傍観してしまう性分はあると思います。

――ELT人気が沸騰した90年代後半は、音楽シーンもバブルでした。忙しさや周りの期待値も高まる一方のなか、乗り越えなければいけなかったこと、乗り越えられずに闘っていたことなど、ありましたか?

持田一番の課題は、ライブの音圧のなかでどうやって歌うかということでした。経験値がないので、もうそれは本当に難しかったです。レコーディングは大丈夫なんですよ。自分の耳でしっかりモニターできる環境があるので。でも、ライブはそれとは全然違う。実際初めてライブで歌ったとき、自分でも聴いたことない野太い声になってしまい、本当に驚きました。今はイヤモニもあって、繊細なバランスも取れると思うんですけど。

――当時は、ステージ上にあるいわゆるコロガシのモニター・スピーカーだけでした。

持田ありがたいことにいい機材を用意してはくださってたんです。それでも、ライブの空間で自分の声を思った通りに存在させるのは至難の業でした。相当の場数をこなさなきゃ無理なんですけど、重ねていったところで各会場で毎回環境は違うので、昨日適応できたことが今日もできるわけじゃない。ものすごく葛藤していました。改善したい点を理路整然と伝えることもできなかったですし、「ちょっと時間もらえますか?」とも言えなかったですし。

――ライブでの声のコントロールは、本当に難しいんですね。

持田その日の身体のコンディションも関係します。スポーツ選手のようにコーチがいて、睡眠から何から全部解析しながらできたらよかったんですけど、当時はそういうシステムもなく。でも、声を出すってそれくらいセンシティブなことだと思うんです。
■『Time to Destination』楽曲試聴(外部サイト)

■3人から2人へ―― ELTの転機と芽生えた責任感

(C)AMG

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持田さらにもうひとつ大きかったのは、ELTが3人から2人になったこと。スタート当初からの内容が濃すぎて、すごく長い期間3人でやっていたイメージがあるんですけど、実は五十嵐さんがいた時期は短くて。

――96年デビューで、2000年には2人になっています。

持田そこで一度、全てのバランスが崩れるわけです。でも、休憩しようということにはならず、すでに組まれていたツアーに取り組まなきゃならなかった。いろんな方が関わりすぎていて、「やれません」とは言えないし、やらない選択をすることが悔しいという気持ちもありました。後者のほうが大きかったかなと。

――当然、役割分担は増えていったと思います。

持田特にレコーディング作業ですね。それまでは、ある程度できているところでスタジオに入り、3時間ほどで歌って、「あとはやっとくから帰っていいよ」という感じだったところ、2人になってからは、全ての工程を見る、というか、関わるようになって。

――モノづくりですから、そこは楽しかったんじゃないですか?

持田隅々までわかってくると、完成時の達成感がやっぱり大きくなるんです。リリース日が待ち遠しかったくらいです。デビューの頃は、それこそ「人ごと」のように感じてたのが……。

――「自分ごと」になった?

持田はい。自分なりの思いを持って制作に関わることで、聞き手の方たちからのリアクションが楽しみで仕方なくなりました。同時に、責任感のようなものも増えました。体制が変わった途端、期待されていない空気を感じ取ったりもしてたので、その分、絶対にいいものを作るという気持ちが強くなりました。

――ご自身で歌詞を手がけるようにもなりました。そこでの変化はありましたか?

持田歌詞ということの大きな捉え方の話になるんですけど。

――はい。お願いします。

持田五十嵐さんの歌詞を、私は18歳くらいで歌わせてもらっていたわけですけど、当時は「よくわからない」という部分もありました。たぶん五十嵐さんは、多くの方に届く言葉遣いやキーワードを意識されてたと思うんですけど、そこが私にはあまり共感性として響かなかったということだと思うんです。私はもっと踏み込んだ表現方法が好きだったからなのかな、と、今思えば。

――なるほど。

持田当時は、大人が作った歌だから、未熟な私にはわからないのかなというふうに考えてたんですけど、やっぱり作り方の違いだと思うんです。五十嵐さんの歌詞を歌う機会は今もありますけど、それでも、ちょっと「人ごと」のような感覚で歌っている気がします。

――すごく興味深いお話です。きっと歌の普遍性とは何かということだとも思うんです。

持田もしかしたら、私がよくわからない感覚で、伝えようともせず歌っていたことが、聴き手にとっては心地よかったのかもしれないですね。過剰に感情が入っていないことで、押しつけがましさがなかったというか。

――ポップスの不思議さ、いや奥義なのかもしれません。実際、ELTは多くの人の心を掴み、30周年の特設サイトにも楽曲にまつわる思い出がたくさん寄せられています。どんなふうに感じていますか?

持田今やAIとお話する時代ですけど、楽曲を聴いて人生に思いを馳せるなんてことは、機械では置き換えられないと思うんです。そういう楽曲を生み出せたこと、時間にしたらわずかかもしれませんが、日本の音楽の歴史の一部をELTとして担えたことは、本当に幸せなことだなと。

――ELTの歌詞を書くことによって、ご自身の言葉に対する感性みたいなものも磨かれていきましたか?

持田昔から本をたくさん読んできたタイプではないので、知っている言葉は少ないと思うんです。しかも、メロディが先にあって、そこに言葉を乗せていく手法なので。

――いわゆる「曲先」ですね。

持田音の響きに誘われるようにまず言葉が思い浮かぶ。そしたら、それが本当にある言葉なのかどうかを辞書で調べてみる。すると、実際にあったり、自分の描こうとしていた意味と近かったりする。そうやって日本語と出会っていくのが面白かったんですよね。ELTでは言葉数の多い楽曲も多いので、日記を書くように言葉を綴ることもありました。

井上陽水との出会いで知った「好きな音楽」

  • 「いつの間にか少女は」ジャケット (C)AMC

    「いつの間にか少女は」ジャケット (C)AMC

――並行して出していたソロ作品では、持田香織としての世界観がハッキリ提示されていました。揺るがない価値観みたいなものを感じていたのですが、その強さはどこから生まれたものなんでしょうか?

持田具体的にこれだったなというきっかけは、井上陽水さんとご一緒させていただいたことなんです。

――そうでしたか! 2004年に陽水さんプロデュースで「いつのまにか少女は」をリリースしています。

持田もっと自分にしっくりくる歌詞の書き方をしたいなと思っていたときに、その具体的な方向性が、陽水さんとの出会いで見えたんです。あのレコーディングは、もう、驚きの連続でした。

――それ以前の現場とは違っていたということですか?

持田全く違いました。五十嵐さんの楽曲は打ち込みの割合が多いですし、当時の最先端のサウンドを研究し尽くした独特の厚みがあるんです。そこにまた生でドラムやギターが入ってくるので、私はものすごい音圧のなかで必死に歌うことの努力をしていました。ところが、陽水さんの現場で音を聴いた瞬間、水のなかを泳ぐような、立ち止まっても風が吹いてくるような、雲を両手で掴みたくなるような、不思議な感覚をおぼえたんです。なんて心地いいんだろう。私はこれが好きだ! と思いました。

――すごく貴重なエピソードです。

持田世界がまるで変わったポイントです。ELTもちょうど変わっていくタイミングでした。2人体制になってしばらくは、五十嵐サウンドを忠実に守るような楽曲制作をしていたんですけど、そこから少し落ち着いて、2人で実際どういうことがやれるかを模索する時期に入っていたんです。一朗さんがギターなので、ギターが主軸となるサウンドもやってみようということになり、一朗さん自身は「得意じゃない」と言うんですけど、私は一朗さんの弾くアコースティック・ギターも好きだったので、そこをうまく響かせていく楽曲に取り組むようになりました。
  • 「ソラアイ」ジャケット (C)AMC

    「ソラアイ」ジャケット (C)AMC

  • 「恋文」ジャケット (C)AMC

    「恋文」ジャケット (C)AMC

――たしかにそうでした。「ソラアイ」とか「恋文」など。

持田別のエリアで活躍しているミュージシャンの方たちが「いいね」と言ってくださる機会が増えたのは、その頃からです。降谷(建志)クンとかも、「ソラアイ」が好きと言ってくれて、Dragon Ashの作品に私がフィーチャリングで参加することにもなりました。

――持田さんが「feat.」とか「with」という形で参加する作品も急に増えました。それも「えっ?」という人たちと。

持田結果的に意外性のあるコラボばかりでした。先ほど「揺るがない価値観みたいなもの」というふうに言ってくださったんですけど、それが育っていった過程をあらためてお話しすると、まず、陽水さんとの出会いがあり、その後、私自身が素敵な音楽だなと思っていたハナレグミの永積(タカシ)さんとの出会いもありました。実はそういうミュージシャンの方たちの集まるお店があって、そこでセッションする日々を、ある時期送ってたんです。

――楽しそうですね。

持田もう、楽しくて、楽しくて! すごく近い距離感のなかで、奏でている人もいれば、ご飯食べながら、お酒飲みながら、お皿洗いながらその音楽を楽しんでいる人もいる。そんな空間でした。しかも、みんな仕事じゃないんです。ただ、好きな人たちと好きな時間を共有しているという。私はそれがすごく好きだなと思ったんです。こういうことをゆくゆくは絶対やりたい、と、思ったことが、ソロ作品に向かうきっかけとなりました。

――ソロ作品にはいつも意外なお名前があったので、取材でお会いするたびに「どこで見つけてくるんですか?」と聞いてたと思います。ようやく今、合点がいきました。「好き」を求めた結果だったんですね。

持田小野リサさんにもお声をかけさせてもらったり。

――ソロの1stアルバム『moka』の「はじまりとは」でご一緒されていますね。

持田断られちゃったらもうそれはそれと思っていたら、リサさんは面白がって力を貸してくださいました。95年に豊洲で『TK DANCE CAMP』を見ていた自分には、リサさんと一緒に歌う日が来ることなど全く知り得なかったわけで、本当に、人生ってどこでどういうふうになるかわからないなと思います。まだまだこの先も、出会いによってはいろんな可能性があるのかも。そう思えることが、自分の強さなのかなと。
■「ソラアイ」楽曲試聴(外部サイト)
■「恋文」楽曲試聴(外部サイト)

取材・文:藤井美保

※後編は9月30日掲載
■Every Little Thing 30th Anniversary Website(外部サイト)
■My ELT Memoriesキャンペーン(外部サイト)
■持田香織、東京ツアー三部作『TOKYO TOUR TRILOGY』(外部サイト)

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