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音制連40周年記念 後藤豊初代理事長×野村達矢理事長対談
アーティストの権利を守るために「新たな道」を進んできた音制連が「個の時代」にどんな選択をするべきなのか?
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1960年代後半から1970年代にかけて、日本にもフォークやロックなどの新しい音楽が定着し始め、若者達がアーティストのマネージメントを手がけ、コンサートの企画や音楽制作に携わるようになりました。プロダクションを立ち上げる者も多く、その流れの中心にいた後藤さんが、プロダクションの団体である音制連を設立するに至ります。
1986年に任意団体として誕生、1989年に文化庁の認可により社団法人化。当時のエピソードを振り返っていただこうと対談はスタートしましたが、「思い出話」だけに終わらないのが後藤さんらしさ。設立当時に「新しい音楽」の担い手として歩み始めた音制連が、さらに次世代のアーティスト達が時代を席巻するようになった現在、どんな団体であるべきか――にテーマは大きく広がっていきました。それに応えた野村理事長からは、後藤さんと歴代の理事長からのバトンを受け取り、未来に向けてアーティストの権利を守り続ける強い姿勢、そのために音楽業界全体の結束をより深める意志が感じられました。
取材・構成:君塚太 撮影:小山昭人(FACE)
「ステージに立つ側」ではなく「アーティストをサポートする側」
日本音楽制作者連盟理事長 野村達矢氏(MUSIC AWARDS JAPAN実行委員会委員長/ヒップランドミュージックコーポレーション代表取締役社長)
野村 今日、後藤さんとお会いできるということで、僕が後藤さんの存在を意識したのは、いつ頃だったのだろうかと考えていたんです。それで思い出したのが、明治大学時代に入っていたプロデュース研究会発行のキャンパスマガジンのことでした。その創刊号の表紙が、後藤さんだったんですよ。
後藤 えっ? 記憶にはないですが……。
野村 大学1年の時、1982〜83年頃に発行されたもので、僕はまだ編集に関われるような立場ではなかったのですが、先輩の荒木(伸泰)さん(現キャピタルヴィレッジ代表)が、後藤さんに憧れていてインタビューをお願いして、表紙にも掲載したんだと思います。
後藤 インタビューも載っていたのですか。おそらくいい加減なことを話したんでしょうね(笑)。
野村 そのキャンパスマガジンを読んで、後藤さんのお名前が僕の中に刷り込まれたんだと思います。プロデュース研究会のメンバーにとって、後藤さんは憧れの存在でした。当時は後藤さんもまだお若かったと思いますが、音楽業界に乗り込んでいって、新しいフィールドをつくり、パイオニアとして輝いていたというイメージが強かったですね。カウンターカルチャーといいますか、新しい文化の匂いを感じさせてくれましたし、新しいフィロソフィーが伝わってきたんです。
僕が大学生の時は、吉田拓郎さんや井上陽水さんの登場より少し後で、甲斐バンドやRCサクセションなど、ロックバンドも出てきた時代でしたが、明らかにそれまでの歌謡曲の在り方とは違って見えました。普通に考えれば、あの頃は「音楽に憧れる=アーティストに憧れる」だったわけですが、今でいうスタートアップ、学生から起業をして成功した方にも憧れがありましたし、より身近な存在に感じられました。だからプロデュース研究会も、軽音楽部みたいにステージに立つ側の発想ではなくて、アーティストの後押しをして、サポートをする発想で活動していたのだと思います。同じような活動をしている人達が、他の大学にもいましたしね。
後藤 僕にとっては吉田拓郎と出会ったことがすべての始まりなんです。71年の新宿厚生年金会館だったと思いますが、「イメージの詩」という曲を初めて聴きました。歌い出しの歌詞から何から、驚いてね。こんな曲を書き、歌うシンガーがいるなんて信じられなかった。僕は早稲田大学で、それこそプロデュース研究会的なことをやっていたので、吉田拓郎のライブイベントをやろうと思い立ちました。それが結果的に会社の設立(1971年、ユイ音楽工房)につながったんです。
野村 後藤さんが吉田拓郎さんと出会った時、まだ大学生だったんですか。
後藤 そうです。ただし、僕は大学に7年間、籍がありましたから(笑)。僕らは東京で会社を設立しましたが、北海道ではウエスの小島(紳次郎)さん、四国ではデュークの宮垣(睦男)さん、他にも九州のBEAや名古屋のサンデーフォークなど全国で少しずつイベンター、今でいうコンサートプロモーターが立ち上がってきて、皆が拓郎を応援してくれたんですよね。各地からの後押しもあって、彼はスターダムにのし上がっていくわけです。
アーティストの権利を守るため必要だったマジョリティ
日本音楽制作者連盟初代理事長 後藤豊氏(フォーライフミュージックエンタテイメント代表取締役社長)
後藤 音制連を設立する、直接的なきっかけは貸レコードでした。貸レコードといっても若い人達はピンとこないと思いますが、200円から300円でレコードやCDを貸すビジネスが80年代から流行ったことがあるんです。貸レコード店は普通のレコード店と同じように品を揃えていて、若いお客さんを中心に新譜が出る度にレコードを借りに行くわけです。旧譜を借りる場合ももちろんあります。そして、当時だったらカセットテープなどにコピーしてしまう。当然、こんな商売を認めたら、売れるはずのレコードも売れません。
ところが、僕らが貸レコード対策に頭を悩ませている段階で法律ができてしまい(1984年施行の貸レコード暫定措置法、翌年には改正著作権法)、貸与権使用料(商業用レコードの公衆への貸与に関する報酬)を受け取る団体として、文化庁から芸団協(日本芸能実演家団体協議会=伝統芸能から音楽、演劇、演芸、舞踏まで幅広いジャンルの実演家団体の集合体)が指定されてしまったんです。
野村 貸与権という権利をつくり、使用料の徴収へ向けて動いていたわけではなく、貸レコード自体を認めていなかったわけですね。
後藤 はっきりいえば「潰してほしい」と思っていました。当時の記憶は曖昧なのですが、確か芸団協に加盟している演奏家の団体、日本音楽家ユニオンの方が僕に会いに来て話を聞いてみると、団体を設立しないと使用料が受け取れないことが分かりました。使用料も何も、僕は貸レコード自体を認めたくない気持ちが強かったのですが、法律ができてしまった以上は仕方がないですし、現実的には貸レコード店で借りられているアルバムの多くは我々がマネージメントをしているアーティスト達の作品であり、アーティスト達が貸与権の権利者であるわけです。
それで僕が声がけをして集まった「十日会」のメンバー(他に、アミューズの大里洋吉さん、ヤングジャパン・グループの細川健さん、ミュージカル・ステーションの金子洋明さん、ヤマハ音楽振興会の梅谷佳紀さん、りぼんの奥田義行さん、シンコー・ミュージックの青柳茂樹さん、六文銭ファクトリーの上田章二さん、音楽工房モス・ファミリィの寺本幸司さん/1980年の設立時、社名は当時のもの)に相談したんです。それで「マジョリティを持たなくてはいけないから、ちゃんとした団体をつくろう」と発展していき、音制連の設立につながったんです。つまり、蚊帳の外に置かれた状態だった僕達が、やむを得ず徒党を組み、既得権益の中に乗り込んでいったという図式です。
野村さんにも感覚的に理解してもらえると思いますが、僕らはあまり徒党を組みたがらないじゃないですか(笑)。各社が独立独歩でやってきた意識が強くて、公益を優先する立場でどう行動するのかにも慣れていなかった。
だから当初は驚くことが多くて、日本音楽家ユニオンの方が僕に投げてきた貸与権使用料の分配の比率は3対7でした。最初に聞いた時は「僕らのアーティスト分が7なんだな」と思ったら、逆だった(笑)。「録音に参加している歌手は1人の場合が多いが、バックを受け持つ楽団の演奏家は30人くらいいるから」「これだけの数のレコーディングに参加しているから」という理由で、彼らの提案は「歌手が30%、演奏家が70%」だったんです。これはあくまで当時の話ですが、絶対数を盾にした労働組合的な発想でしたね。
アーティストがつくり、歌い、演奏し、名義も彼らのアーティスト名、バンド名になっているレコードである現実を見ようとせず、今でいうメインアーティストという認識が全くなかった。もちろん世の中で発売されているレコードには色々なものがありますし、立場上、日本音楽家ユニオンの方がそう交渉してくるのは理解できます。僕らにとってレコーディングに参加してくれるサポートミュージシャンも仲間だという気持ちもありましたが、ここはさすがに妥協はできないなと思いました。音制連の設立以降も、僕らの芸団協での闘いは、様々な局面で続いていくことになります。
野村 音制連の歴史は、まさにそうですね。
――その後、音制連が参加した芸団協内のCPRA(実演家著作隣接権センター)に実演家のための権利処理機能は集約されることになり、使用料の徴収・分配の在り方は年々改善されていくことになります。2026年3月分配分より商業用レコード二次使用料等(放送で楽曲が使用された場合に実演家が受け取れる報酬)の分配方法の見直しが行われ、新たな方式での分配が始まったことは近年の大きな成果だったと思います。
野村 僕らは後藤さんが切り拓いてくださった道を、ずっと歩み続けているんです。新たな方式での分配の実施は、メインアーティストとサポートミュージシャンの料率の争いではなく、楽曲使用の実態に即して、より正確に権利者へ分配するためのものでした。時代が変わり、技術の進化によって精度の高い使用データが取れるようになりましたので、権利処理に関わる我々は、より正確かつ迅速な、そして手数料をできる限り抑えた分配を目指すべきだと考えていました。
後藤 基本的に音制連は「権利者ありき」の姿勢を崩してはいけないんです。これは今の若い人達にも、しっかりと伝えていくべきだと思います。権利者のためには、徹底的にやらないといけない。権利を守るということが、安定したマネージメントやクリエイティブの循環につながるんだということを、今後も継承していってほしいですね。





